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秀吉の走りめし大作戦

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「中国大返し」を支えた握りめし

織田信長が、京都の本能寺で明智光秀に暗殺されたのが天正十年(1582)の六月二日。この時点で豊臣秀吉(1537〜1598)は、岡山県の高松城を攻略中でしたが、信長の死を知るや、有名な「中国大返し」を決断します。
高松城を水攻めで決着をつけ、光秀成敗に向かいます。そうは言っても、光秀軍が陣を張る山城国の山崎までは、ざっと200キロ。秀吉軍は総勢二万五千の大軍ですから、移動も大変です。

まず味方である姫路城に入って兵を休め、次の日には城内の白米を全部出して、山ほど炊き出し、味噌を添えて全軍に好きなだけ食べさせます。「これほど美味い飯を腹いっぱい食べたのは、生まれて初めてだ」と言って足軽たちは狂喜し、やる気を全開。
白めしは走るためには理想的なエネルギー源でした。また消化酵素が豊富な生味噌がついているため、消化がよく、即戦力につながる理想的な「走りめし」だったのです。人を動かすには、まず胃袋を掴む。これは秀吉流の人心掌握術と言ってよいでしょう。

走りめし大作戦

腹ごしらえが済むと、腰に味噌おむすびを結んで、再び大返しを開始。六月九日に姫路を出発して翌々日の朝には尼崎に到着。
姫路からの約80キロを二日で走破しました。ここで小休止をとった後、更に走って兵を展開し、光秀軍との決戦は六月十三日に京都南部の山崎で行われました。
予想もつかないほどの猛スピードで、秀吉の大軍が目の前に出現したため、浮足立った光秀軍は、あっけなく敗北してしまうのです。

自分の居城に向かって逃げ出した光秀は、山科の竹やぶの中で、落ち武者狩りに襲われ、あっけなく落命。「本能寺の変」からわずか十一日目であり、世に言う明智光秀の「三日天下」となりました。
天正十一年(1583)には、同じく信長の家臣だった柴田勝家との跡目争いが起こります。これが有名な「賤ヶ岳(しずがだけ)の戦い」で、この時も「中国大返し」と同じように、50キロの夜道を五時間で走り抜けるという、意表をつく作戦で勝家軍を破っています。
この時の走りめし大作戦は卓越していました。村々の人たちに、味噌おむすびや赤飯などを山のように用意させ、武士たちに自由にとらせているのです。合戦終了後に秀吉は、土地の人たちにおにぎりの代金として時価以上の金を支払ったので、かえって喜ばれました。
秀吉は農民出身者であるだけに、食べ方・食べさせ方においても、非凡なセンスを持っていました。農民の苦労も知っていますから、農民を苦しめるようなこともしません。敵方の武士からも好かれ、家臣も自然に増え、ついには日本一の出世男になったのです。

執筆者紹介

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食文化史研究家 永山 久夫
文化研究所、綜合長寿食研究所所長。西武文理大学講師。古代から明治時代までの食事復元研究の第一人者。長寿食や健脳食の研究者でもあり、長寿村の食生活を長年にわたり調査している。新聞の連載などの執筆活動他、テレビ・ラジオ出演、講演等で、古代食や長寿食、情報化時代の頭脳食のテーマを解りやすく解説し人気。著書『武将メシ』(宝島社)、『大江戸食べもの歳時記』 (新潮文庫)など多数。
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